昔の苦労話ー銀行の貸し剥がし
2006年9月17日 お仕事もう8年も前になるが、英国駐在になった初年の1998年の暮れ、突然、大手M銀行の当社担当課長が当社を訪ねてきた。当社は、ロンドンのシテイーにofficeを構える日系の大手銀行4社より資金を借り入れ、事業を行っていた。クルマの販売financeや在庫資金として、ピーク時には約40億円の借り入れがあった。経営上、どうしても必要な資金であり、日系の4社の銀行とは良い取引関係を継続していた。
その頃日本では、バーゼル条約により銀行の自己資金8%基準の確保が海外で営業することの条件となった。8%以上を確保するために銀行は貸し出し資金の回収に取り組み始めており、有無を言わせない「貸し剥がし」を始めていた。その取り組みが、海外にも展開され、本社の指令として、貸出先企業に貸出金の返済を要請してきたと言うわけであった。
交渉は、こちらの事業運営上不可欠な資金であり、今まで通り継続的な貸し出しをお願いしたが、日本本社の命令との一点張りで、貸し出し枠の大幅ダウンを一方的に押し付けられた。
困った当社は、先ず、クルマの仕入先に支払いのdue-dateの延期を認めて貰った。また、当社の日本本社に親子ローンの融通を依頼し、資金を回してもらって、漸く凌ぐことが出来た。
1999年になり、暫らくすると、政府より公的資金が各銀行に入り、自己資金の心配もなくなり、一時のような銀行の「貸し剥がし」は話題にならなくなり、また「貸し渋り」も急速にしぼんでいった。むしろ、銀行は大手企業を中心に融資枠拡大の勧誘を始めだした。中小企業には、あいかわらづ厳しい状況は続いていたが。
当社にも、あの時「貸し剥がし」にやってきたM銀行の課長から、貸し出し枠の拡大のお願いがあった。勝手なものである。
銀行の存在する社会的意義など全く感じられないやり方ではないか。
当社として、経営を続ける限り、資金は必要である。お付き合いのあった4社の銀行の中で、「貸し剥がし」真っ盛りの最中にも、当社のお願いに協力的であった銀行とのお付き合いを拡大したのは申すまでありません。
今となっては、はるか昔の出来ことではあるが、一時は日本や海外の日系企業を震撼させた重大事件であり、経営を担当した身にとっては忘れられない事実であり、ここに記録として留めた次第です。
ロンドンブリッジ
その頃日本では、バーゼル条約により銀行の自己資金8%基準の確保が海外で営業することの条件となった。8%以上を確保するために銀行は貸し出し資金の回収に取り組み始めており、有無を言わせない「貸し剥がし」を始めていた。その取り組みが、海外にも展開され、本社の指令として、貸出先企業に貸出金の返済を要請してきたと言うわけであった。
交渉は、こちらの事業運営上不可欠な資金であり、今まで通り継続的な貸し出しをお願いしたが、日本本社の命令との一点張りで、貸し出し枠の大幅ダウンを一方的に押し付けられた。
困った当社は、先ず、クルマの仕入先に支払いのdue-dateの延期を認めて貰った。また、当社の日本本社に親子ローンの融通を依頼し、資金を回してもらって、漸く凌ぐことが出来た。
1999年になり、暫らくすると、政府より公的資金が各銀行に入り、自己資金の心配もなくなり、一時のような銀行の「貸し剥がし」は話題にならなくなり、また「貸し渋り」も急速にしぼんでいった。むしろ、銀行は大手企業を中心に融資枠拡大の勧誘を始めだした。中小企業には、あいかわらづ厳しい状況は続いていたが。
当社にも、あの時「貸し剥がし」にやってきたM銀行の課長から、貸し出し枠の拡大のお願いがあった。勝手なものである。
銀行の存在する社会的意義など全く感じられないやり方ではないか。
当社として、経営を続ける限り、資金は必要である。お付き合いのあった4社の銀行の中で、「貸し剥がし」真っ盛りの最中にも、当社のお願いに協力的であった銀行とのお付き合いを拡大したのは申すまでありません。
今となっては、はるか昔の出来ことではあるが、一時は日本や海外の日系企業を震撼させた重大事件であり、経営を担当した身にとっては忘れられない事実であり、ここに記録として留めた次第です。
ロンドンブリッジ
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